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■感想の前に
まず、最も強く感じたことは私自身の「老い」であった。
以前であれば、視聴した日の夜中には、その内容如何を問わず、熱を帯びた自分なりの解釈をブログに長々と書いていたのであろうと思う。
書いては直し、書いては直し、投稿したら文字数をウェブサイトでカウントしてニヤついたりする。
熱量は文字数に表れる、少なからずその側面はあるはずだ。
しかし、現在になり、いざ感想を書こうとなると「長文になりそうだな」「Cherry軸特有の音が響くキーボードでバチバチ打ってる姿を家族に観られるのは気乗りがしないな」「勢いをつけるために飲酒して書いた乱文を翌日恥ずかしくなって校正するのは辛いな」などという思い、感情が筆をとることそのものから私を遠ざけた。
ブログをはじめとした気軽に個人がモノをかける文化からいかに私が遠ざかっていたのか、逆に言えばSNSの楽さにどっぷり浸かっていたのか、今の生活に合う、フィットする感覚のあるSNSを否定するわけではないのだけれど、ブログから離れて10年超、これは自分の時間が縮小し始めたころとタイミングが重なってしまうことと同義であり、それらを犠牲にした多大なる幸福があるとはいえ、それなりの時を経て自分自身に突きつけられている。
何より、長文を書くにあたって重要になる語彙力や言葉の重複を避けた言い回しを絞り出そうとすると、20代前半の頃と比べ、頭の中にとても大きく深いモヤが存在している。
読む、書くどちらの活字からも離れた中年を過ごしている結果なのであろう。
これらはエヴァシリーズを視聴し始めた中学生の頃から20年以上の時が経過している事に対する何よりも重い実感である一方で、文字に起こすことを通じ、自分をエヴァの呪いから解放するため、何とか書ききることができないか、今から挑戦してみたいと思う。
現在の時刻は21年3月28日午前6時10分、素面。
イマジナリーとして現れたエヴァンゲリオンのひとつである。
■とにかく終わらせる
結論から先に言えば(冒頭部分をそこそこ書いておいて先と言えるのか?)、私は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』に100点をつけることはできない。
ただ「呪いからの解放」という一点においてこれ以上ない回答を用意し、とにかく羅列し、視聴者のみならずスタッフまでを救済させようとしている姿勢そのものには万雷の拍手を送りたい気持ちである。
例に出せば、シンジの声優を「アニメと実写の架け橋たる」神木隆之介君に変えて緒方恵美を卒業させ、15年間の孤独に寄り添い続けたケンスケによってアスカを卒業させ、ゲンドウはユイやシンジと向き合って電車を降りた。エヴァンゲリオンシリーズに至っては串打ちされる焼き鳥の様にぶっ刺されては消えていった。
それらに考察の余地は殆ど残されていない。
兎にも角にも、シンジが舞台装置さながら真の意味での「シンジさん」になっている様に見受けられる部分は多々あるものの「エヴァという作品全てを終わらせるためにやれるだけのことをやった」描写であることは間違いのない事実であろう。
「謎が謎を呼ぶ」エヴァではなく、残されたすべての問題に愚直に向き合って、限られた上映時間の中で、出来うるすべてに取り組んでいる。
その成果なのだろうか、鑑賞後「大往生した親族の葬式のような」「どこか卒業式のような」感覚を強く抱いた。
一方で、心の中にどこかスッキリとしない感情が残っている事も事実であった。
「私は何に納得していないのだろうか」と、その晩は餃子でビールを飲みながら考え続けることになる。
■私の求めるもの
視聴の翌朝、二日酔いのベッドの中でなんとなく答えに近い感情が湧き上がる。
『アスカ』と『キレッキレの戦闘シーン』だ。
どうやら私はそれらに満足していない。
この「満足」という概念は、自分が100点と思わなくては100点になりえない、どうしようもなく極めて主観的なものである。
■アスカ
まず『アスカ』について。
呪いをうけ、成長が止まり、食事を摂れず、眠れず、シトと同化し、喘ぎながら目からなんかスゲーのが飛び出してきたアスカ。
テレビアニメ版からEOEを経て、新劇場版に至るまで幾度となく「この子をいい加減幸せにしてやってはくれないものか」と思い、考え、性癖を構築していった。
それが、その筈がである。
シンエヴァを通じ「何やらケンスケと距離が近いな?」「あっ、ぬいぐるみからケンスケが」「ホットギミック快楽天のあの謎犬が"連打するっす!"って言うときくらいムチムチだなアスカ」とか思っているうちに、自分の想像からだいぶ離れた「幸せ」にアスカがたどり着いた時、吐き気を催すほどに小さい己の器を突きつけられている気分になった。
私はどうしたかったのだろう、私は既婚者だからアスカとは結婚できない、じゃあシンジとくっついて欲しかったからこの感情を抱いているのか?それとも「幸せ」を願いながら心のどこかではアスカに幸せになってほしくなかったのか?
わからない。30代も後半になってわかりたくない、向き合うのは辛い。
ただ、結局私にとって、『アスカ』の部分に対する「満足」、つまり100点は「エヴァが完結した時点で起こりえない事象なのではないか」と、言語化できない感情の中、頭の中で無理矢理咀嚼することにした。
■戦闘
ここは至ってシンプル。
腕と繋がったプログレッシブナイフがぴょんぴょんしたり、スーパーコマンダー冬月擁する戦艦とヴンダーがドンパチやったところでEOEの弐号機対量産機の1/100程も興奮しなかった。
なんとなく「どうせヴンダーが爆散することはないんだろうな」とか「マリとアスカはここで死んだりはしないだろ」みたいな緊張感の欠如があったし、何より映像が解りにくくて仕方なかった。
パリへのカチコミは音楽も相まって「ウェアラブルカメラから見たようなグルングルン視点」や「ハンドル型の操縦」など興奮させる部分も多々あったが、一方で使途がワタアメのように集積する根拠や理由がよくわからないし、NHKで放送された庵野監督の「プロフェッショナル」を視聴した後だと、スケジュールに起因するところが少なからずあるとは言え「現在のカラーが用意できる最高の戦闘シーンがこれなのかな?」と思わせてしまって、テレビアニメ版の対イスラフェルやアラエルだけでなく、序、破と比べても肩透かしというか、結果として下地となったテレビアニメ版の素晴らしさを強く感じることになってしまった。
これらは、CG描写への切り替えによってできることが格段に増えた一方で、セル描写のテクニックが完全に引き継げていないこと、監督がそもそも描きたい、見せたいものが当時と現在で大きく変わっている事が理由なのではないかと考えている。
■続く呪いについて
終わった、終わらせた、そんな事はどうでも良くて、四半世紀に渡り我々を興奮させた作品が完結したのである。
そして、大部分の反響は好意的であろうし、私も100点でこそないが、今出来る限りなくベストに近い作品なのではないか、とも感じている。
ただ、私が100点と出来ない部分の延長線上で、この作品を批判したり、あるいは「呪いから解放」されていない人がいるであろうことは想像に易く、また彼らを尊重してあげてほしいという気持ちが強い。
人種や性別以外のダイバーシティの延長線上の話である。
■庵野なのか、エヴァなのか
この論争に関して言えば、私は「エヴァ」に対する思い入れが強く「庵野」に対する感情は相対して軽薄である。
■終わりに
今、ウェブ上で長文を一般人が書く文化は殆ど残されていない。
有名なブロガーが名を馳せ、ホットエントリとして共有されることは多々あれど、おそらく「ヤギさんのラーメンブログ」と検索してもなおこのブログの場所をGoogleは示してくれないのではないか。
そんな時代にあっても、承認欲求を満たすため以外に、或いはカウンセリングの様に、己と向き合い、ひたすらに自身の感情や感想を書き連ねるための行為をエヴァはさせてくれたのである。
これがエヴァの醍醐味であり、人生に寄り添ってくれた、作品、そして作り上げた彼らへの最大の賛辞として、ちっぽけなネットの狭間から、シンエヴァンゲリオンのポスターに映る波打ち際の彼らの様に「ありがとう!」と手を振りながら感謝を叫びたい。
ただ、それでも、エヴァンゲリオンは続いていくだろうと、心のどこかで強く思っている。
21年3月28日午前7時22分。
長男が折り紙で作った手裏剣を背中に受けながら。PR